2005年6月 2日 (木)

従軍慰安婦の正体

小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」。「正論」1月号より。

 小野田さん。勿論あの方、戦後30年間もフィリピンのジャングルで単独で任務遂行?した方。1950年帰国、その後ブラジルで牧場経営、1959年より福島県で小野田自然塾を開講、以来82歳の今もキャンプを通じて子ども達と触れあいを続けてる方である。その小野田さんが、何と「従軍慰安婦」を真正面から論じる。大いなる誤解を正したい、真実を証言したいと。

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雑記帳より

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 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。戦後60年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従堰慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。、あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。

 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

◆漢口の「慰安所」を見学

 商社員として17歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ5カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。

 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長ー下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長ー兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働げば半年か1年で洗える」といい、中には「1日に27人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

◆どこにもいなかった「性的奴隷」

 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

 当時、漢口周辺には約33万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。3分の1が飲食費、3分の1が郵便貯金、3分の1が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として1ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

 1人の兵士がそれぞれ3等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は1カ月平均13円程で、その3分の1を約4円として計算すると33万人で総額約132万円になる。「零戦」など戦闘機1機の価格は3万円と言われたが、実に44機分にも相当する。サラリーマンの初任給が40円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

 以上が、私が商社員として約3年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。

 私が漢口を去った昭和17年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。

 「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

 次に、軍関与の暴論について証言する。

 私は20歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、1ケ年1度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。

 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる4年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から30キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は24時間である。

 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。

 もう60年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。

 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。

 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。現実は少ない給料の中から、その3分の1を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。

 「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性(さが)が存在するからだ。

 「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。

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 従軍慰安婦問題についても、日本政府自身がしっかりとした調査をし、例えそれが中韓の癇に障るものだったとしても、従軍慰安婦問題に対する日本政府の立場をはっきりさせするべきである。また、事実をねじまげて報道する報道機関に対しても適切な方策をとるべきである。

6月 2, 2005 大東亜戦争 | | コメント (18) | トラックバック (8)

2005年5月30日 (月)

A級戦犯、国内では罪人でない

A級戦犯、国内では罪人でない…森岡厚労政務官発言

 森岡正宏厚生労働政務官は26日の自民党代議士会で、小泉首相の靖国神社参拝問題に関連し、「中国に気遣いして、A級戦犯がいかにも悪い存在だという処理をされている。A級戦犯、BC級戦犯いずれも極東国際軍事裁判(東京裁判)で決められた。平和、人道に対する罪など、勝手に占領軍がこしらえた一方的な裁判だ。戦争は一つの政治形態で、国際法のルールにのっとったものだ。国会では全会一致で、A級戦犯の遺族に年金をもらっていただいている。国内では罪人ではない。靖国神社にA級戦犯が祭られているのが悪いように言うのは、後世に禍根を残す」などと発言、参拝取りやめを求める中国などを批判した。

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 極東国際軍事裁判は、戦勝国が敗戦国を裁くという構図であったため、評価については議論が分かれている。この裁判では、核兵器の使用や戦略爆撃による一般市民の大量虐殺など連合国軍の行為は対象となっていない。

 ドイツが舞台となったニュルンベルク裁判では、ドイツの法曹関係者の大半が裁判に協力しているが、極東国際軍事裁判では、日本の法曹関係者の裁判への協力は行われていない。日本の法曹関係者の関与が広島と長崎への原子爆弾の投下をめぐる処理を複雑化し、戦勝国、特にUSAにとって望ましくない影響をもたらす可能性があったからとも考えられている。このため、ニュルンベルク裁判に対する批判はあまり聞かれないが、極東国際軍事裁判については、戦勝国の報復にすぎないという意見が見られ、極東国際軍事裁判の評価をめぐっては、今のところ結論が確定するには至っていない。

 裁判の公平性に関して次のような論説がある。審理では、日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む)がほぼ却下されたのにもかかわらず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった。 また検察側証人のすべてに偽証罪を問わなかった。

 極東国際軍事裁判は魔女狩り同然であったとの意見もある。なぜなら戦争犯罪はどこの国でも犯しているものであり、勝者が敗者を裁くこと自体、卑劣な復讐劇に過ぎないからである。アメリカの原爆投下も、日独に対する無差別空爆も、ソ連のポーランド侵攻も、ベルリンにおけるレイプもすべて不問とされた。真の戦争犯罪とは、戦争に負けることだといえる。

 欧米などでは、判事や関係者による指摘が起こるとともに国際法学者間で議論がされ、裁判に不備があったという意見が大部分であったといわれている。明らかな事後法で裁いており全員無罪としたパール判事(唯一国際法学の学位を取得していた)の判決も注目されいる。

 連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、後にハリー・S・トルーマン大統領と会談した際に、「東京裁判は平和のため何ら役に立たなかった」と述べたといわれる。彼は、1951年5月3日に開かれたアメリカ合衆国連邦議会上院の軍事外交合同委員会において、「日本は、国外からの供給品の遮断によって1,000万から1,200万の人々が失業するのを恐れていたわけで、戦争に向かっていく理由は、主として安全保障上からの要請であった。」と日本の自衛的側面を認めている。

 日本国との平和条約第11条において、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」と定められており、日本国は、この条約に対して署名・批准することで極東国際軍事裁判所の裁判を受諾している。

 この裁判の効力に関しては、条約中の「裁判の受諾」の意味をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、判決手続き一般の受諾と考える立場に2分されている。日本国内においては、1953年の国会決議で、他所で連合国に裁かれたB・C級を含め、連合国の裁判によって命を失った者は「法務死」として戦死、戦病死に準じて扱われている。

 極東国際軍事裁判が公平な裁判ということはできない。中卒程度の知識があれば分かることである。裁判というより単に戦勝国による敗戦国に対する報復である。戦勝国に裁判をさせるよりも我が国自身が、我国に被害を与えたものを裁くべきであった。特に牟田口廉也のように、日本のためでなく、帝国陸軍のためですらなく、ただ単に自己の立身出世のためだけを目的に何万もの我国将兵を犠牲にした卑劣な人間を許すわけにはいかない。

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5月 30, 2005 大東亜戦争 | | コメント (10) | トラックバック (4)

2005年5月28日 (土)

またもや元日本兵の生存情報

比の旧日本兵情報、大使館員が身元確認中
[マニラ 27日 ロイター] フィリピンのミンダナオ島で第2次大戦期の旧日本兵とみられる2人が発見されたことを受け、日本の当局者が身元確認などにあたっている。確認されれば、30年ぶりの日本兵発見となる。フィリピンは、1941年に日本の侵攻を受け、終戦近くには、日米が激しい戦闘を展開した。

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 小野田氏のTV番組に関するblogを書いていたら、またもや元日本兵の生存情報がもたらされた。小野田寛郎氏の帰国から31年。旧陸軍第30師団に所属していた山川吉雄氏と、中内続喜氏とみられ、他にも生存者がいるとの情報もあるという。

 彼らは、自分の人生を国のために犠牲にし、日本のために尽くしたのである。日本の政府には、彼らを正当に扱うよう希望する。

(追記 05/05/30 21:26)
 仲介している人間が怪しい事や反政府ゲリラ支配地域いたことが、彼らが元日本兵でないという事に直接はつながらない。無論、反政府ゲリラが彼らを利用することはあるだろう。しかし、本物の元日本兵だとしたら、彼らは日本の為に自分の人生を犠牲にしたのである。日本政府には、きちんとした調査をし、彼らを救い出す義務がある。

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2005年5月27日 (金)

小野田寛郎氏

 NHK HVで、5月24日に小野田寛郎氏の特集を行っていた。ハイビジョン特集「生き抜く・小野田寛郎」ルバング島と過酷な人生の真相▽戦後60年今こそ語る。

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 小野田寛郎氏は1922年3月19日和歌山県海南市生まれ。中国で商社マンをしていたが、1942年12月、和歌山歩兵第61聯隊に現役兵として入隊、中国湖南省に出征する。1943年9月、甲種幹部候補生に合格。1944年1月、久留米第一種陸軍予備士官学校に入学。同年9月、陸軍中野学校二俣分校に入学。11月、同校卒業後、12月、比島軍指令部参謀部付となり杉兵団参謀部に配属。 遊撃指揮及び残置諜者の命を受け、島田伍長、小塚上等兵、赤津一等兵と共にルバング島に派遣される。終戦後も、彼らに任務終了の命令が届かなかったため、ジャングルの中でゲリラ戦を継続。1974年3月、作戦命令解除の命令を受け、日本に帰還する。

 1949年、赤津一等兵が投降したことにより、小野田氏の分隊?の存在が明らかになった。1954年、地元の軍隊と武力衝突、島田伍長が戦死。小野田氏の家族や戦友などが中心となり政府を巻き込んだ捜索活動を実施するも発見には至らなかった。政府は残りの二人も1954年の戦闘で死亡したのではないかと推測、捜索活動は中止される。ところが、1972年、また地元民と戦闘が起き、小塚上等兵が戦死。この時一人逃げたという証言から、小野田氏が生きている可能性があるとして、再び捜索隊が組織されるが発見することはできなかった。

 この小野田氏を帰国に導いたのは、冒険家の鈴木紀夫氏。1972年2月20日、鈴木氏はルバング島のジャングルで偶然小野田氏と遭遇。鈴木氏は一晩掛けて小野田氏と話し合い、彼に一緒に日本に帰りましょうと説得した。しかし小野田氏は「自分は命令を受けてここに残留しているから、その命令が解除されない限り勝手に帰るわけにはいかない」と言ったという。鈴木氏は、小野田氏の上官と連絡を取るから、もう一度会って欲しいと要請。鈴木氏からの連絡で小野田氏の元上官・谷口義美少佐が急遽ルバングに赴いた。そして、小野田氏に、残留命令の解除を伝え、長年の任務遂行の労をねぎらった。小野田氏は同年3月12日、鈴木氏らとともに帰国した。帰国後、政府はせめてもの慰労金として100万円を渡そうとしたが、小野田氏は拒否。どうしてもというので、彼はこれを靖国神社に寄付してしまう。

 その後、どこへ行ってもマスコミのカメラが小野田氏を取り囲むようになる。その上、心無いマスコミは「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」と批判を大々的に始める。「任務を遂行しただけなのに。皆、笑顔で送り出したではないか。」ささいなことで父親とけんかになったという。「郷に入れば郷に従え」という父に「命が惜しくて生きてきたのではありません。誰がこんな世の中に生きたいと思うもんか」と床の間の軍刀を抜き割腹しようとしたが、弟が止めた。

 小野田氏は帝国陸軍より1942年12月に招集をうけた。その後、1974年3月10日に残留命令の解除を上官から伝えられるまで、自分自身の人生を国のために犠牲にし、忠実に命じられた任務を全うしたのである。日本以外の国で彼を英雄として扱わない国があるのだろうか。小野田氏にとってマスコミからのパッシングは、日本中が彼を批判し拒絶しているように感じただろう。彼の胸中はいかなるものであったのだろうか。帰国翌年、日本を離れブラジルで牧場経営を始める。この際にもマスコミは「日本を捨てた」、「恩知らず」と非難した。

 だが1980年、邦字新聞で知った浪人生の金属バットによる両親殺害事件が、小野田氏を再び日本に向かわせた。「豊かな日本で自分を見失った子どもが増えている」。1984年、「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、富士山ろくで「小野田自然塾」を開く。その後、福島県塙町に移り、毎年春から秋にかけてキャンプで子どもを指導している。自らのジャングルでの経験を元に逞しい日本人を育成することを目指し、講演会やキャンプなどを行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている。

 2004年12月17日、ブラジル空軍は勇気と功績をたたえ、「サントス・ドゥモン勲章」を授与した。同章は民間人にも授けられる勲章としては最高位である。

  NHKの番組で小野田氏は「亡くなったら日本とブラジルどちらに埋めてもらいたいですか」と訊かれ、一瞬ためらうような表情を見せた後、「死んだところで埋めてもらえれば良いですよ。自分を祀ってくれるところなら場所を選びません」と答えた。小野田氏の日本に対する深い思い。彼の思いを土足で踏みにじるような連中の存在。その瞬間、万感胸に迫り、それまで堪えていた涙が止まらなくなり、画面を見ていられなくなった。

 再放送、HNK BS1 6月25日 19:10?21:00。

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小野田寛郎(1922-) FFORTUNE

5月 27, 2005 大東亜戦争 | | コメント (21) | トラックバック (53)

2005年5月24日 (火)

大東亜戦争の評価

 俺が前に書いた「毛沢東。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました」に対して、 まっくんさんから「日本軍国主義が中国に大きな利益をもたらしたというのは、いかがなものでしょうか」というコメントをいただいた。

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 これに対しては、楼主さんが詳しく解説していただいているが「日本軍国主義は中国共産党に大きな利益をもたらしました」が、正解に近いと考える。もし日中戦争がなければ、中国共産党が現在のように中国を支配することができただろうか?日中戦争で結果的に一番利益を得たのは誰だったのか?そういった疑問が、盧溝橋事件の中国共産党の謀略説まで生んでいるのだろう。

 「偉大な指導者がいいと言ったり、行なった行為が必ずしも万人によかったとはいえないことです」これを否定できる人は少ないだろう。日本人を含め世界中の一般市民が殺害され、大量殺戮兵器の使用され、捕虜が虐待された。しかし、Arnold Joseph Toynbee が述べている、「第二次世界大戦によって、日本人は日本人のためよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年間に考えていたような、不敗の半神でないことを明らかにした点である。」という点も否定できない事実であると考える。

 池田平太郎さんの「アジア諸国はともかく、少なくとも欧米に非難されるいわれはないと思います」には、完全に同意します。(全然同意しますという言葉は、現在では通用しないと他で書かれたので)

5月 24, 2005 大東亜戦争 | | コメント (5) | トラックバック (9)

2005年5月20日 (金)

牟田口廉也、最悪の帝国陸軍官僚

 牟田口廉也、佐賀県出身。陸士22期。戦後、戦犯として逮捕されるが不起訴。

 日中戦争を実質はじめた現場責任者、インパール作戦で何万の将兵の生命を虫けらのようにドブにすてた帝国陸軍官僚。個人的には牟田口という名さえ許せない人物である。牟田口廉也本人とは関係ないと理性では理解しても、牟田口という姓を聞くだけで、はらわたが煮えくり返る思いがする。

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 牟田口廉也、佐賀県出身。陸士22期。陸大卒業後、参謀本部員。

 盧溝橋事件のとき、支那駐屯歩兵第1連隊長として現場指揮にあたり、事件を拡大させる。 盧溝橋事件は、昭和12年7月7日に北京南部の盧溝橋で起きた発砲事件で、その後の日中戦争(支那事変)の発端となった。盧溝橋付近で、北京郊外の富台に駐屯する日本の支那駐屯軍が夜間演習を実施していた、その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の二等兵1人が足りなかった。牟田口廉也連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。参謀本部および日本政府は不拡大方針であり、戦闘の中止を命じた。しかしながら、出先の部隊は、戦闘中止命令に従わず戦闘を拡大。不拡大方針は吹き飛び、本格戦争へと発展していった。

 この牟田口廉也は、日中戦争の初めだけでなく、太平洋戦争の終わりにも登場する。悪名高いインパール作戦である。

 蒋介石政権の屈服と英国の脱落によって終戦の機をつかもうと考えていた大本営は、昭和17年8月、21号作戦(東部インド進攻作戦)の準備を南方軍指示したのである。しかし現地では、ビルマ防衛の任にあたる第15軍、その隷下で21号作戦の主力に予定された第18師団(師団長牟田口廉也中将)がこの作戦に不同意を唱えた。

 この作戦の実行には大きな困難が伴い、無謀な計画とすら考えられた。まず、5月末から9月末までに及ぶ雨季には降水量が9000mmに達し、その間の作戦行動ほ不可能であった。乾季に作戦を実行するとしても、作戦地域たるインド・ビルマ国境地帯は峻険な山系が南北に走り、チソドゥィソ河などの大河も作戦行動にとって一大障害であった。しかもジャソグルが地域一帯をおおい、当然交通網も貧弱で、悪疫療病の地であった。このような悪条件を指摘して、牟田口廉也中将は作戦困難を主張した。

 しかし牟田口廉也が第15軍司令官に就任したとき、彼の判断は180度の転換をとげる。本人の弁によれば、「私は盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支部事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳が立つであろう。」ということである。

 第15軍司令官に就任した牟田口廉也は、従来の守勢的ビルマ防衛ではなく、攻勢防禦によるビルマ防衛論を唱えたのである。彼の判断によれば、ジビュー山系に設定した現在の防衛第一線ではもはや安全でほないので、これをチソドゥィソ河の線まで推進する必要があるが、チソドゥィソ河ですら乾季には敵の進攻に対する障害とはなりえず、かつ防衛正面も広くなるので、むしろこの際初めから攻勢に出、連合軍反攻の塞源地インパールを攻略すべし、というのであった。彼の構想は攻勢防禦によるビルマ防衛という軍事的判断だけにとどまるものではなかった。彼の構想は単なるビルマ防衛を超え、インド進攻にまで飛躍した。

 無論、牟田口廉也が第15軍司令官に就任にしたからといって、東部インド進攻作戦の困難さが軽減したわけではない。単に牟田口廉也が師団長として前線に張り付かなくても良くなっただけである。昭和19年3月、インパール攻略作戦は強行された。しかし、食糧の補給計画なく、軍需品輸送用の牛を食い、野草を食う予定で、軽火器だけを携帯して、険阻な未開発の山野を進軍する日本軍に対し、英国軍は、戦車等で固められた陣地を拠点とし、航空機による援護と弾薬・食糧の大量補給を行った。これに対して日本軍は到底互角に戦えるはずがなかった。前線の師団長が絶望的な戦闘より部下将兵を全滅させる惨状を坐視するに忍びず、繰り返し後退を懇請しても、牟田口はこれを一蹴して抗戦継続を強要した。第33師団長柳田元三が作戦中止の意見を具申し、憤激した第31師団長佐藤幸徳が独断で退却を決行すると、牟田口は、柳田・佐藤および病気に倒れた第15師団長山内正文の三師団長を罷免するという、日本陸軍史上未曾有の事態を惹起するにいたった。7月に入ってついに全軍退却のやむなきにいたったが、食糧・弾薬は尽き、マラリア等の病がひろがり、傷病兵は路上に倒れて自決するほかなく、日本軍の退路はいたるところ死屍累々とした。第15軍の無謀きわまる作戦のために、参加兵力約十万の内約三万を失い、約二万は病に倒れ、残存の約五万のうち半数は患者であったという。

 牟田口廉也の姿に現在のキャリア官僚の姿が重なってみえるのは俺だけだろうか。当時の日本は日本の中に帝国陸軍という国があり、帝国海軍という国があるようなものであった。牟田口廉也は、その帝国陸軍の中で自分が出世するためには、何万の将兵の命を犠牲にすることを何とも思わなかった。日本の利益よりも省益、省益よりも自分の利益が優先、そんなキャリア官僚が如何に多いことか。軍は単なる道具である。それを使うシステムが変わらなければ、何も変わらないだろう。なお牟田口廉也は作戦失敗のあと、国内で陸軍予科士官学校長についている。またインパール作戦の最高責任者である川辺司令官は、このあと大将に昇進した。

  失敗の本質―日本軍の組織論的研究 中公文庫

  太平洋戦争 岩波現代文庫

5月 20, 2005 大東亜戦争 | | コメント (15) | トラックバック (19)

2005年5月19日 (木)

A級戦犯について「その両手を中国、アジア人民の鮮血で汚した」

【北京17日共同】中国外務省の孔泉報道局長は17日の記者会見で、靖国神社に合祀されているA級戦犯について「その両手を中国、アジア人民の鮮血で汚した」と述べ、16日の衆院予算委員会集中審議で靖国参拝継続の意向を示した小泉純一郎首相の姿勢を批判した。
 孔局長は、小泉首相の参拝問題について「単に故人に対する祭祀ということで済む問題ではない。(日本が)歴史問題にいかに臨むかという点にかかわる問題だ」と指摘。A級戦犯の合祀が根本問題との認識を示した上で「彼らが罪を犯したという見方は国際社会の定説」と述べ、小泉首相の参拝継続は認められないとの中国の立場を強調した。

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 A級戦犯とは、極東国際軍事裁判所条例の第五条の(イ)に定義された「平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。」を犯したとして、極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指す。

 戦争犯罪とは、戦争に関する法(国際法など)に違反する行為のことである。具体的には、他国に対して戦争を仕掛けたり、敵兵・捕虜に対して非人道的な扱いをすることなどである。また、民間人に対しての殺戮・追放・逮捕など、紛争や混乱の誘発や報復感情の拡大の原因となる行為と言動も、戦争犯罪であるとされている。

 戦争犯罪ということで日本人が裁かれるならば、東京大空襲や広島・長崎への原子爆弾投下は、非戦闘員への無差別殺害を意図したものであり、ナチスのユダヤ人虐殺などと同じく国際法に違反するおそれが高い行為である。これらは明らかに戦争犯罪にあたるが、無論、起訴さえもされていない。極東国際軍事裁判が戦争犯罪を裁くための裁判であるなら、勝者の行為であっても公平に罪を問われるべきだろう。

 マリアナ沖海戦で帝国海軍連合艦隊が、USA太平洋艦隊に完敗した時に日本の敗戦は決定的になった。その後の戦いは、帝国陸海軍にとっては敗戦処理、連合国軍には残敵掃討にすぎなかった。明らかに勝利が決まった時点で多数の民間人を殺戮することが正当化されるのであろうか。極東国際軍事裁判とは、勝者の敗者にたいする報復以外の何物でもない。

5月 19, 2005 大東亜戦争 | | コメント (2) | トラックバック (5)